躰道とは何ぞや…
大会もなく、稽古も出来たり出来なかったり。
何ともやるせない日々を皆さまお過ごしのことと思います。
こうやることが少なくなると、頭ばかり考え事が進みますね。
コロナのパンデミックになってから、YouTubeを見る時間がやたらと増えた気がします。
また、そういう活動が増えたのもあると思います。
最近は格闘技熱が再燃しており、試合の動画や選手たちのチャンネルも良く目につきますね。
そうすると、否が応でも躰道と格闘技について考えてしまいます。
躰道は格闘技では使えない!
と言うのは、考えられていると思います。
それは、躰道で格闘技と対峙したら戦えるのか?と言うことですが、断言して無理だと思います。
何故か?
まずはルールの問題。
制約を少なくし、相手を倒すことを目的とする格闘技。
制約を多くし、より制限された中で自分にできることを取捨選択しながら戦い、相手を制することを目的とする躰道。
躰道はスポーツ的要素が多く、格闘技は少ない。
真逆を向いているものかなと思っています。
ローキックもジャブも禁止されているルールなのに、格闘技と闘うのはどう考えても無謀でしかない。
運足をして躰道の技のみで闘うなんて、無茶苦茶です。
では躰道は武道ではないのか?
と言うと、武道ではあります。
ただ、よく武道はルールが無い中では強い、と言われています。
例えば、空手であれば眼突き、金的、喉、肘、鬼拳などを使ったらどうなるか。
柔道であれば、コンクリ上で投げたらどうなるか、服を着ていたらどうなるか、指を捕られたらどうなるか。
剣道であれば、棒でも持ったらどうなるか。
でも、躰道であれば…??
もちろん、技術として肘、膝、掌底、貫き手はあり、躰道の技でも押し崩しや逆手取り、背面捕り、前面捕りなど面白い技があります。
ただ、躰道は空手の技術を使って、競技性を高めるために考案された武道のような気がします。
これで相手を殺傷するために考えられたものではないと思います。
なので、ルールが無い中で強いか、と言われるとそうではないと言えます。
そもそも、ルールの無い中で強いか強くないか、と言うのは武道の本義とは違うものになります。
それは武術や格闘術であって、武道ではない。
加納治五郎が講道館柔道を設立して以来、武道には教育的な意味が無ければ武道ではないと言われています。
「道」は「人道」、人としての道。
それは、他人を痛めつけ、倒し、力を誇示するためのものではありません。
人として強くなること、それを求めるのが武道です。
人としての強さとは何か。
それは自分の心に克つこと。
誘惑だったり、怠け心だったり、周りの意見だったり、流されてしまえば楽に生きられる。
自分の意志を忘れ、無為に生きていくのではなく、矜持を持って生きていくこと。
それを生涯かけて探求していくことが武道だと思います。
どんなものにも「道」はあります。
「武」を通して「道」を探るもの、それが武道です。
なので、凄く内面的なものが武道だと思っています。
ただ、ルールが無いなかでは弱い、のであっても良いわけではありません。
それは武道である意味がない。
競技性と武道性を兼ね備えることの難しさは、躰道には特にあると思います。
そこは競技を離れることで見えてくるものではあるのかもしれません。
躰道のルールでは危険だからと使えなくなり、指導者が知らなくなっている技の数々は、武道性を秘めている技が多いです。
躰道はやっぱり空手がベースなので、空手の修練は必要だと思います。
それも、かなりしっかりとした修練が必要だと思います。
その土台があってこそ躰道の強さが発揮できると思っています。
突き蹴りに躰の勢いを乗せ、更に威力を増強する。
それが躰道の本質であり、そこを格闘技に活かすことは十分に可能だと思います。
なので、躰道をやるには空手を、それも肘、膝はもとより、掌底、手刀、裏拳、貫き手、熊手、鬼拳、槌拳、一本拳等々もしっかりと身に付けることがまず一つ。
次に躰道の動き、運足や操体を学び、動きながら戦える技術を身に付ける。
そうすれば、躰道の本当の強さが身に付くと思います。
あと、躰道をすることで得られる身体の強さ。
ウェイトトレーニングをしていないのに、自重だけでここまで躰を鍛えられるものは、器械体操ぐらいです。
そこも躰道の強みの一つではないかと思います。
暇だったので、徒然なるままに書いてみました。
少し頭の整理に繋がりました。
by crasher_gomes | 2021-06-03 15:04 | 躰道記